だから立体は面白い。
言葉にならないイメージも、立体ならば形にできる。
漫画家:黒鉄ヒロシさん
無我と言語は両立しない?
黒鉄:人って自分が認めるもの、価値ありとするものを傍に置きたいというのがあるでしょう? で、それをなにかに見立てるわけです。頭の中から空中へとふわっと浮かび上がったイメージをかたちにしたいという思いがある。いわば変形した墓標のようなもの、とでも言えばいいのかな。
――人によってはものにその思いを込めることもありますね。
黒鉄:ものに込められたフェティッシュなイメージというものもありますね。僕の場合ならオードリー・ヘプバーンのものならなんでもほしいしね。そういえば先日、ナポレオンの髪の毛が売りに出されてすごい額で落札した人がいたらしいけれど、これも同じことですよ。
ただし、浮かんだイメージを自分で定着させるには立体しかないんです。そういうイメージは言語を離れて浮かんでいるものだから、外へではなく、内へ内へと向かう立体でないと表すことはできませんから。ところが言語を獲得してから、人間はものすごく不条理感に囚われるようになってしまった。そもそも言語自体が不条理なものですから、不条理感を言語で解こうとしても解けるわけがない。
......ところで、ゴルフはやりますか?
――え? ゴルフ、ですか?
黒鉄:ゴルフというのは全身を使った言語なんです。実は、子どもはゴルフがメチャクチャうまい。子どもは「打つときには頭を上げてはダメよ」と言われれば頭を上げないで打つ。「利き目を合わせてボールを片眼で見て」と教えられれば、その通りに振り子のようにちゃんと打つ。だから「カーン!」とボールが飛ぶ。
――要するに、子どもは言語で考えないからゴルフが上手?
黒鉄:そう。対して大人は「これを外したら恥ずかしい」「うまく打ちたい」と言葉で考えてしまうから、ついつい頭を上げてしまう。だから視線が狂って失敗する。頭の中の言葉と戦っている、要は雑念があるわけです。しかし言葉と戦ったって勝てるはずがない。言語と身体のことは、ゴルフを考えると良くわかります。
"奥義"もまさにそこが肝心です。宮本武蔵の奥義もそう。幕末の居合の達人・斎藤一もそう。斎藤が暗闇で敵と相対した瞬間に、敵という概念も"切るべきもの"という言語的認識も飛んで、身体についた訓練だけで切っていたという、あれですね。絵だって「うまく描こう」と思った瞬間にダメになる。皆、同じことです。
で、言語じゃないものといえば音楽と彫刻しかない。だからこのふたつは文化の最高峰として結論づけられているわけです。
――いわゆる"無我の境地"がそこにあると? そして立体がそこに至らせてくれるということでしょうか。
黒鉄:ただし、無我へと至るということは同時に、狂気へと向かうことにもなる。
ものをつくるということは、絶えず動いているということです。指先も動く、身体も動く、時も動く。作業はすなわち動くこと。そもそも内臓も脈拍も常に動いている人間は、死ななければ決して止まらない。
ところが言語によって人間は自分を"止める"ようになってしまった。たとえば"今"について考えた途端、"今"は言語上では止まっていても現実の時としては考えた瞬間には既に過去になりますよね。結局、「今の今はいつの今の...ウゥワ~ッツ!!!」ってなり、どんどん狂う方向に向かってしまう。だから言語は厄介なんですよ。
そして"ものづくり"で思うこと
内へ内へと入り過ぎると正気じゃなくなるのは、ものづくりも同じです。だから「ここまでいったらいかん! やめなさい!」と自分を止めないといけない。
――となると、どこでやめるかが問題ですよね。
黒鉄:そこで他者の目が欲しくなる。自分の目が信じられなくなると、自己に対する絶対的他者が欲しくなるんですね。シェークスピアの「きれいは汚い」という言葉のように、"汚い"があるから"きれい"があるのと同じようなものです。でもね、夜中に「できた! 見て! 見て!」と寝ているカミさんを起こすと「いったい何時だと思っているの!?」と言われてしまいますが。
異常へ異常へ向かいつつも、正気を保ちながら指先を動かし、ものをつくって遊ぶ、というわけです。
―では"ものづくり"を目指す若者たちに最後に一言お願いします。
黒鉄:以前、漫画家仲間でゴルフをやったときに聞いたことがあります。確か、さいとうたかお、ちばてつや、永井豪、北見健一、古谷光敏たちだったかな。
「この歳まで漫画一本で皆やってきたけれど、なにかコツのようなものはあったのかな」
そしたら皆が口を揃えて「運だ」と言ったんですね。才能のある人なんていっぱいいるから、少々の才能なんか屁のツッパリにもならない。百人いたらとりあえず一人が生き残り、あっちでもまた一人生き残る。次の世代が出てきてまた一人生き残り、そのなかから生き残る人がいる。これを忘れたらいけません。忘れた人はいなくなる。
――思い入れを込めてやっていくなかで運を掴む?
黒鉄:とはいえ、しばし"村の鍛冶屋"であることは必要です。当然才能らしきものがあり、而して全体を決めるのは運である、と。
"村の鍛冶屋"は鍛冶屋の日々を歌った唱歌です。
「暫時(しばし)も止まずに槌打つ響 飛び散る火の花 はしる湯玉 ふゐごの風さへ息をもつがず
仕事に精出す村の鍛冶屋...」という歌詞で、大正時代から歌い継がれていました。
黒鉄:あ、あてずっぽうはダメ、"好きこそものの上手なれ"です。ただし上手だからいいというものでもない。要は「やめちゃいかん」ということです。「責任を持たないかんよ」ということでもあるかな。
ものをつくるということは作為が働くものなんです。"ハーメルンの笛吹き"のようなものといっても良いかもしれない。「昔々あるところに」と言いながら手を替え品を替え、行き着いたと思ったら背中をドーンと突いて「楽しいぞ!」と。それでお土産を持って帰った気持ちになってくれたら、それでこちらは「イエイ!」と言える。
――本日は"ものづくり"にとどまらない、人の在り方そのものについて思考を巡らせることができたように思います。ありがとうございました。
PROFILE
黒鉄ヒロシ(くろがね ひろし)
1945年高知県生まれ。漫画家。武蔵野美術大学商業デザイン科中退。
1968年、『山賊の唄が聞こえる』でデビュー。1997年、『新撰組』で第43回文藝文藝春秋漫画賞受賞。1998年、『坂本龍馬』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞。2002年、『赤兵衛』で第47回小学館漫画賞審査委員特別賞受賞。2004年、紫綬褒章受章。他に『もはや、これまで 経綸酔狂問答』(共著)、『千思万考』、『ぱんぷくりん』、『新・信長記』、『GOLFという病に効く薬はない』など著書多数。